オリンピック・パラリンピック2020もいよいよ幕を下ろしました。コロナ禍の中での開催については当然のことながら、賛否両論喧々囂々でした。
ただ、実際に競技が始まってみると、アスリートたちのスピード、技、自らの限界に向かって見せる飽くなき挑戦の姿、一事にかける集中力、精神力に惜みなく賞賛の拍手を送らずにはいられませんでした。特にパラアスリート達からは沢山のことを学び、気付きを貰いました。
数日前の某新聞のコラムにブラインドサッカーと呼ばれる視覚障碍者の5人制サッカーのことが書かれていました。
「この競技が日本に上陸した当初は『危険だ』と、拒む空気もあったそうだが、参加者はどんどん増えていく。晴眼者の体験教室も頻繁に開かれるようになったが、晴眼者にとってはボールを蹴るどころか、前に走るのは怖い、という感覚。一方、選手たちは『ピッチでは自由に動ける。障害者であることを忘れられる』と語る」と。
続いて、視覚障害のある会社員の話が紹介されていました。この方は壁などにぶつかりつつ電車通勤をするのですが、「ぶつかるものがあると安心する。それは家では味わえない、世界から差し伸べられた手だ」とおっしゃるのだそうです。
ブラインドサッカーの体験からも分かるように、晴眼者が目隠しをつけ、どこか分からない所に放り出されたら完全にパニックです。そして、恐る恐る1㎜ずつ動きながら、何か触る物、ぶつかる物を360度手探りすることでしょう。
壁か何かにぶつかれば、自分の立ち位置が分かります。そして再度何かにぶつかるまで前に、横に進むことが出来ます。視覚障害の方が覚える安心感はこれだ!と思いました。確かにブラインドサッカーでも同じで、選手たちは周りのフェンスに触れながら自分の位置を確認しています。
そして、物理的な壁ではなく、抽象的な壁もあることに気づきました。「壁にぶち当たる」という慣用句です。困難にぶつかったり、暗礁に乗り上げたという悪い状況を意味します。
が、果たしてそうでしょうか?壁にぶつかった時は一度立ち止まってみる時。その壁は神様が用意下さっているもので、それ以上進むと危ないよ、ちょっと一息入れようか、という神様が発してくださる警告だと。
顔についている目は見えても、心の目が曇ったり、塞がっている私たちが、試練や苦境に陥った時、すなわち、人生の壁にぶつかる時、それは、私たちの助け手である主を覚えて安心できる恵みの場ではないでしょうか。そこに差し出されている神様の導きの御手の中にしばし留まって、今自分がどのような所にあるのかを良く吟味し、再スタートに備えることが可能な時ではないでしょうか。
思いがけない思いめぐらしの時が与えられました!
所感②
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