メリークリスマス!

私には頭では分かっているけれど、なかなか実践できないと思うことが沢山あります。良い生活習慣もいつも3日坊主です。心の問題に至ってはなおさらのことです。
特に、主義、主張、信条、価値観の違いを、違いと認めることは出来ても、その人を心から愛したり、尊敬することに大変な困難を覚えます。どこまで自己中心で高慢なのかと、自分のうちに巣食う罪性を粉砕したくなる衝動に駆られます。
けれども、考えてみれば、もともと簡単なはずがないのです。簡単ならば、イエスキリストの救いは必要なかったでしょう。簡単ならば、キリストの模範は必要なく、誰もキリストに従っているのだとは考えないでしょう。
御子が人となって地上にお生まれ下さったのは、主のみ名を信じる者が神の子とされて、イエス様と一緒に
人を愛し、父なる神を愛し、崇めるためです。
私たちがいつも心に留め置くべきことは十字架のみです。
「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」とイエス様に語られたお言葉は、そのまま私たち一人一人に語って下さっています。
主のお心をいただいて、お従いし、愛することを実践していくのみです。主が私の心一杯に満ちてくださいますように!

所感③

現代人は人間関係を構築するのが苦手だと良く言われます。M係の中でも確かにその傾向が見られます。会員同士だけでなく、室長との報連相はもとより、基本的な挨拶や相手の身になって考えることが出来ないようです。

社会はますます多様化、複雑化し、ネット上に蔓延する陰謀論やフェークニュースによって伝統が揺らぎ、新しい価値観を模索する動きが起きています。多くの人が迷い、翻弄されています。

長引くコロナパンデミックで多くの人が孤独感に押しつぶされそうになっています。大学生になったのに一度もキャンパスに行ったことがないのです。テレワークでZoomで人の顔を見ることはあっても、顔と顔を付き合わせて話をし、大声で笑い合い、肩を叩いたりして体に触れ合う、そんな機会はめったにありません。

人は孤独感の中で求めます。何か信じられるものを見つけたい!そうすれば仲間もできる!と。ですからそういう人の弱みに付け込んで、危険な集団やカルト宗教が、羊の毛の衣をまとった狼のあの手この手を駆使して餌食を狙っています。
人は自由の欲求を持っていますから、支配されたくないのですが、一旦、洗脳或いはマインドコントロールされてしまうと支配されているとは考えなくなります。

このような時代だからこそ、天地万物の創造主である唯一真なる神様の愛をもっともっと伝える必要があります。
クリスチャンホームはそれ自体が大きな伝道の場です。そして、一人よりも二人で外に出てゆけば、一つの輪、或いは二つの伝道の輪が更に大きく広がることが期待されます。
今日も、世界中で救われる魂が起こされるように祈るとともに、心から、沢山のクリスチャンホームが生まれることを祈ります。

所感②

オリンピック・パラリンピック2020もいよいよ幕を下ろしました。コロナ禍の中での開催については当然のことながら、賛否両論喧々囂々でした。
ただ、実際に競技が始まってみると、アスリートたちのスピード、技、自らの限界に向かって見せる飽くなき挑戦の姿、一事にかける集中力、精神力に惜みなく賞賛の拍手を送らずにはいられませんでした。特にパラアスリート達からは沢山のことを学び、気付きを貰いました。
数日前の某新聞のコラムにブラインドサッカーと呼ばれる視覚障碍者の5人制サッカーのことが書かれていました。
「この競技が日本に上陸した当初は『危険だ』と、拒む空気もあったそうだが、参加者はどんどん増えていく。晴眼者の体験教室も頻繁に開かれるようになったが、晴眼者にとってはボールを蹴るどころか、前に走るのは怖い、という感覚。一方、選手たちは『ピッチでは自由に動ける。障害者であることを忘れられる』と語る」と。
続いて、視覚障害のある会社員の話が紹介されていました。この方は壁などにぶつかりつつ電車通勤をするのですが、「ぶつかるものがあると安心する。それは家では味わえない、世界から差し伸べられた手だ」とおっしゃるのだそうです。
ブラインドサッカーの体験からも分かるように、晴眼者が目隠しをつけ、どこか分からない所に放り出されたら完全にパニックです。そして、恐る恐る1㎜ずつ動きながら、何か触る物、ぶつかる物を360度手探りすることでしょう。
壁か何かにぶつかれば、自分の立ち位置が分かります。そして再度何かにぶつかるまで前に、横に進むことが出来ます。視覚障害の方が覚える安心感はこれだ!と思いました。確かにブラインドサッカーでも同じで、選手たちは周りのフェンスに触れながら自分の位置を確認しています。
そして、物理的な壁ではなく、抽象的な壁もあることに気づきました。「壁にぶち当たる」という慣用句です。困難にぶつかったり、暗礁に乗り上げたという悪い状況を意味します。
が、果たしてそうでしょうか?壁にぶつかった時は一度立ち止まってみる時。その壁は神様が用意下さっているもので、それ以上進むと危ないよ、ちょっと一息入れようか、という神様が発してくださる警告だと。
顔についている目は見えても、心の目が曇ったり、塞がっている私たちが、試練や苦境に陥った時、すなわち、人生の壁にぶつかる時、それは、私たちの助け手である主を覚えて安心できる恵みの場ではないでしょうか。そこに差し出されている神様の導きの御手の中にしばし留まって、今自分がどのような所にあるのかを良く吟味し、再スタートに備えることが可能な時ではないでしょうか。
思いがけない思いめぐらしの時が与えられました!

所感①

”何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい” (マタイ7:12)

黄金律と言われるこのイエス様の戒めには数十年に及ぶ信仰生活の中で幾度となく自己中心的な自分を反省させられたり、又励まされたりしてきました。
けれども、このみ言葉を深く思いめぐらすことは、これまでほとんどなかったように思います。あまりに当たり前で、単純明快なことに思われたからかもしれません。ところが少し前、突然疑問が湧いたのです。

「自分の望むことが、また、他の人も望むことだと、どうして言えるのだろう。自分の望みや良いと思うことを他の人に押し付けることになるのではないか!?」
「自分がしてほしいこと、そしてそれは間違いなく、例外なく他の人も望むものって一体何なのだろう…」と、考え始めました。

選択理論心理学では、良好な人間関係を築く身につけたい習慣の主なものとして次の7つを挙げています。
1.傾聴する 2.励ます 3.受容する 4.支援する 5.尊敬する 6.信頼する 7.違いを交渉する
他にもより具体的なものとして、感謝する、微笑む、許して忘れる、などなど沢山あるかと思います。

そして、これらがまさに、他者中心の「愛」の行為なのだと気付きました。
相手を思いやる愛の心遣いに根差すこういった行為は間違いなく「自分にしてほしいこと」ですし、ほかの人も望むところであることにも疑いの余地はありません。
このイエス様の戒めは「意志的に働きかける愛の行為を相手からしてもらうのを待つのではなく、自分がスターターになってやりなさい」ということではないでしょうか。

私たちの罪の贖いのために、ご自分の命をささげてくださった主の愛の身丈に成長させていただきたく、御霊の助けを祈り求めるばかりです。


違いについて ~5~

違いの乗り越え方③ ~対等な関係性~

会話の目的は、相手の望んでいることを知ることです。
相手からの情報(事実・意見・感情)を受け取るとき、相手が何を望んでいるかを知ることが出来ます。ですから、良く傾聴して、理解したことを伝え、その後で情報(事実・意見・感情)を伝えますが、話す時は、相手が受け取りやすいように配慮します。
このようなコミュニケーションが可能になるには二人の間の対等意識(お互いに自立していること)が基盤となります。
以前書きました7つの良い習慣を使いながら話し合い、関係性を築いていくということです。
「違いを乗り越える」すなわち「違いを認め合う」ということは、相手の感情や必要、願望、そして違いなどを、自分のそれらと同様に大切に考え、配慮するということです。そのためには根底に、相手への関心、尊敬、信頼の気持ちが必要となります。自分もOK、相手もOKという関係性です。
どちら(の意見)が正しい?ということではなく、二人の間にある違いを違いとして尊重すれば、7つ目の「違いを交渉する」という建設的な歩み寄りが出来、より良い関係性につながっていきます。

みことば:〈相手を自分より優れた者と思いなさい〉
     〈裁いてはいけません。裁かれないためです〉

違いについて ~4~

違いの乗り越え方② ~お互いに違いを認め合いましょう~

 違いはあくまでも違いであって、優劣の問題でもなく、ましてやどちらが正しい、間違っているという問題でもありません。
相手から見れば、あなたにも違いがあります。それを正しい、間違っているの尺度で評価されたら、どんな気持ちになりますか?お互い様です。

 否定しない。自分の考えや意見を押し付けない。
相手の意見がどんなに自分のそれと違っていても、一旦は「そうなんだ」「そう考えているんだね」と受け止めましょう。
受け止めても必ずしも受け入れる必要はありません。一旦、まな板の上に置いて、よく吟味して、受け入れるかさっと流すかを選択すればよいのです。

 相手に関心をもって耳を傾けましょう。「傾聴」という言葉は今や日常的に使われますが、「聴」という字を良く見てください。大きな👂耳と14コの心です。傾聴するとは大きな耳と沢山の💛ハートを傾けて聞くことです。
そしてその時、ダ行を使って答えないで、サ行の相づちを使いましょう。
 ✖ 「だって」「だから」「でも」「だいたいさ」「どうして?」
 〇 「さすが」「すばらしい」「その通り」「そうなんだ」「そう考えているんだね」等など。

違いについて ~3~

★違いの乗り越え方①
違いを乗り越えるには、すでに書いたことですが、「正しい病」を克服することです。自分は正しい、相手は間違っていると考えると相手を変えたくなります。が、他人を変えることは出来ません。

「ニーバの祈りーThe Serenity Prayer」という有名な、深い祈りがありますね。
≪ 変えられるものを
   変える勇気を
 変えられないものを
   受け入れる冷静さを
 そして両者を
   識別する知恵をわれに与えたまえ≫

 変えられるものの筆頭は「自分」変えられないものは「自分以外」と言えるでしょう。
先の記事に「7つの致命的習慣」というのがありますが、読んでいただきましたか?ここに挙げられているのはすべて相手を変えようとしてする行為です。他にも沢山あります。口をきかない、引きこもる、膨れ面をする、不機嫌になる、泣き落とす等から、強制する、怒鳴る、叩く、物を投げる、ドアをバタンと閉めるなど、暴力的なものもあります。
相手は怯えて身を守ろうと、言われた通りにすることを選択することもあるので、自分の行為が効果的だったと思うかもしれませんが、錯覚です。相手のあなたに対する尊敬や信頼の気持ちは薄れていき、二人の関係性は壊れていくだけです。ですから、相手を変えようとしないで、変えられるものに集中することです。
余談になるかもしれませんが・・・・・
変えられるものの筆頭は自分だと言いました。が、自分のことでも外見、例えば、手足の長さ、顔のパーツなど、持って生まれた造形は変えられませんね。けれども内面は変えられます。
内面が変わると表情が変わります。姿勢を良くするとスタイルが良く見えます。健康にもなります。こうして自分のことでも変えられるものに集中すれば、変えられないものへの執着は消えます。エネルギーをプラスの方向に使うことができますね(#^.^#)
(M係 K. S.記)

「違い」について ~ 2 ~

毎年、大勢の人たちから祝福されて結婚するカップルの3組に1組が離婚してしまいます。離婚しなくても、さらに多くのカップルが、自分の結婚生活は不幸せだと悩んだり、諦めたりして不本意な日々を過ごしています。
何が離婚の原因かご存じですか?筆頭は「性格の不一致」というものです。要するに「違い」です。
では離婚を避けるため、自分のコピーのような人を探すべきでしょうか?だとすれば、いつまで経っても結婚できないかもしれません。
私たちは皆、生育歴、考え方、価値観、習慣、好みなどすべての面でまちまちです。違っていて当たり前、違っていて素晴らしい。違いがある分、それだけ豊かになるはずです。
違いの目的は、否定し合うためではありません。そうではなく、互いに助け合い、補い合い、高め合っていくためです。二人の間にある違いを互いに認め合い、尊び合い、乗り越えていくのが結婚であり、結婚の祝福と言えるかと思います。
では、どうすれば違いを乗り越えて、違いがあるからこそより豊かな、幸いな関係を築いていくことが出来るでしょうか。しばらく、違いの乗り越え方について考えてみたいと思います。

結婚についての十戒(出エジプト記20:12)

1. 自分の子どもの性教育は、自分の交際期間に始まっている。子どもにして欲しくないことは自分たちもしない。子どもの模範となる。(テトス2:7)
2. 結婚する前の性関係を求められたら、結婚までは「No」。結婚したらたくさんしようね、と答える。(第1テモテ4:12)
3. 結婚したら性関係を拒否することはしない。自分の体は、相手のもの。相手の体は自分のもの。互の権利を奪い取ってはならない。(第1コリント7:3-5)性関係を楽しみなさい。(箴言5:18 )そのためにも夫婦は同じ時刻に就寝する。
4. 優先順位は親よりも自分の配偶者。子どもよりも配偶者を優先する。神を第一とし、第二は配偶者。次に、子ども。親はその次。(マルコ10:7-8)。しかし、父母を敬うことは実践する。(マタイ19:19)
5. 収入の一部を献げる習慣をつけ(申命記14:22)(マラ記3:10)、お金については双方が納得する取り組めをする。一定の金額を超える買い物については相談する。(第1テモテ3:3)
6. 結婚しても愛の表現を、言葉、触れる、ギフト、サービスの提供、クォリティタイムの共有、で維持する。(エペソ5:28)
7. 互に赦し合う。(エペソ4:32)
8. 怒りの感情を寝室に持ち込まず、その日のうちに解決する。(エペソ4:26)
9. 互に嘘をつかずに真実であることによって、信頼を醸成する。(エペソ4:25)
10, 互の親戚の悪口を言わない。(第1ペテロ2:1)
                        (柿谷正期、2021.02.17)

違いについて ~1~

他人との関係性が壊れていく時ってどのような時でしょうか。いろいろ考えられると思いますが、一つには「違いが生じた時」ではないでしょうか。
神様は私たち一人一人をオンリーワンの存在として、それぞれユニークに創ってくださり、高価で尊い!と言ってくださっています。私たちは誰一人として同じではなく、違いがあって当たり前です。ではなぜ「違い」が問題の原因となるのでしょう。
交際期間中は、相手の自分と違う点が新鮮で、そこに惹かれ、素敵!となるのですが、結婚してしばらくすると、少しずつ少しずつ歯車がかみ合わなくなってきます。何が起きているのでしょう。何が変わったのでしょう。
人は誰しもいくつかの基本的欲求をもって生まれてきます。結婚で一番脅かされるのが自由の欲求です。独身時代の自由を手放したくなければ、結婚は諦めた方が良いでしょう。何でも自分の思い通りにでき、誰からも文句を言われなかった独身時代。今は事あるごとに違った習慣や考え方と折り合いをつけていかなければなりません。勢い、相手の存在がうっとうしくなります。そこで「どうして彼(彼女)はそうなんだろう?そうじゃないだろう?!間違ってるよ!」と、相手に変わってほしい、相手は変わるべきだと思い、さらに「私は正しい。間違っている相手を直してあげるのは私の責任である。」と相手を変えようとし、そのことに強い正当性を持つのです。
誰も、お前は間違っていると批判し、変わるようにと非難してくる人と良い関係性を持ちたいとは思わないでしょう。
二人は別々の個性で違っていて当たり前、違っていて素晴らしい!これはどこへ行ってしまったのでしょう、、、
自分の願望に固執して、相手をコントロールしようとする自己中心性が取って代わってしまったのです。まさに私たちの中に巣食う罪の性質です。