婚前交渉の親密感は本物か

幸いな人年3月号

幸いな人

今日の教会は現代人の性のあり方をどう扱うべきなのか

柿谷正期

石を投げられる人はいない

サマセット・モームの短編に「雨」という作品がある。船が休憩のためにある島についた。出航の予定時刻に雨が降り始め、船はしばらくその島に停泊することになる。船の乗客は宣教師夫婦、医師夫婦、そして身持ちの悪い若いあばずれ娘が含まれている。あばずれ女は毎日大きな音で音楽を流しながら日々ドンチャン騒ぎをしている。宣教師は娘の救いのために時間を費やすようになる。宣教師のこの娘へのかかわり方は献身的で、娘はだんだんと聖書の教えに関心を持つようになり、清純さを取り戻していく。一方宣教師の時間の過ごしかたはこの娘中心になり、真夜中過ぎに自分の部屋に帰っていく宣教師の姿が目撃されるようになる。娘の清純さの復活と宣教師の暗さが対比されている。ある朝波打ち際に遺体が発見される。宣教師の遺体であった。医師にはすぐにそれが自殺であると分かった。一方清純さを取り戻していたはずの例の娘が再び元のあばずれ娘に戻っていた。そして彼女はこうわめいていた。「男はみんな同じだ」と。 性の問題は今も昔も変わらない。誘惑に打ち勝てない人は後を絶たない。ヨセフのようにポティファルの妻から逃げられる人はそう多くはない。「不品行を避けなさい」(Ⅰコリント6:18)と言われている箇所の英語訳は「性的不道徳から逃げなさい」としている。マーチン・ルーサー・キング牧師も逃げきれなかった。そう言えばあの人もこの人も、と思い当たる。こういう問題を抱える教会が世に何を言えるというのであろうか。罪のない者がまずこの女に石を投げつけよ、と言われて、投げられる人はいない。

内なる規範を建て上げる

旧約のユダヤの歴史には一夫多妻制の時期があった。やがてこの制度は一夫一妻制に変化して行った。今でも文化によっては性についての規範が異なることがある。しかし、どの社会にも性に関する規範があり、性についての規範のない社会はない。どの社会でも人を不幸にする事件が起こると、幸福を守ろうとして規範が生まれて来る。性に関する規範もそれぞれの社会で生まれて来た。規範を持たない生きかたは無法状態である。一方自分が自分の規範を作るのは、暴君的生きかたと言えよう。自分が自分のよしとする規範を作って身勝手な生きかたをする。一方社会の規範に追従しようとする生きかたもある。そして社会の規範は変化して行く。「この世と調子を合わせてはいけません」(ロマ12症節)とあるように、私たちに求められるのは、社会の規範に追従する以上の生きかたである。社会の規範に追従する以上の生きかたとは、不変の原則を身につけ、その規範が内在化されている人である。教会が目指すのは、この内在化されている人を育てることである。

婚前交渉の親密感は本物か

若者の性に関する実態を調べた調査がある(渡邊奈都子、『選択理論心理学研究』2003年7巻1号)。18歳〜25歳の300名の専門学校の学生が対象であった。2000年~2001年に実施された調査である。セックスの経験がある若者は58%であった。「セックスすることで相手との関係がより親密になると思う」と答えた若者は43%。しかし親密さを得ようとしても「セックスをした後で、後悔したことがある」と答えた若者は44%。「セックスをしても孤独を感じることがある」と答えた若者は29%。興味深いことは「性交渉をもった相手は信用できる」と答えた若者はわずか8.6%であったことだ。性交渉をする相手を信頼できないという悲痛な叫びとなっているのだ。性交渉によって親密感増大と答えながらも、信頼感喪失という図式である。親密感も増大し、信頼感も増大する交際の仕方を若者は学ぶ必要があるのだ。教会こそこの任務を果たすべきではなかろうか。 結婚する前に性交渉によって得られる親密感は果たして本物だろうか。性交渉は相手の名前を知らなくても可能であるが、本当の親密感は相手を深く知ることなしには得られない。婚前性交渉によって得られる親密感はコミットメント(決断)の伴わないものである。結婚の約束をしたとしても簡単に反故にできる。実際に婚約の半数は壊れていると言われている。自分は約束を守るつもりであったとしても、相手が守り通す保証はない。コミットメントの伴わない性交渉はもろい土台の上に成り立っている。自分と性交渉をもった相手を信頼できないと答える若者が多いことは何を意味しているのだろうか。このカップルが結婚した場合この「信頼感」はどのようになるのだろう。結婚はしたものの、さまざまな理由で性関係を持てない期間はどんな夫婦にも訪れる。一方が病気になることもある。長期間家を離れることもある。子どもが生まれる前後に性関係を持てないこともある。こんなときに信頼感を持っていなかった夫婦は疑心暗鬼の状態になるかもしれない。結婚前にセックスを受け入れた相手が、結婚した後で不倫の機会が訪れたとき拒否をすると思えるだろうか。結婚前に自制力がなかった人が、結婚後に自制力を身につけるようになったと考えられるだろうか。婚前性交渉が増えることと、結婚後の不倫が増えることとに関係があるかと尋ねると、関係ありと大勢が答える。婚前性交渉があたりまえになると、結婚しても不倫があたりまえになるということである。果たしてこのような状態で強固な家庭は築けるのであろうか。このあたりからこの世の性倫理に挑戦できるのではないだろうか。

弱さを持った存在として

私たちの周辺には同棲しているカップルも少なくはない。ある場合同棲が経済的な理由であったりすることもある。住む場所を確保しないで、この問題を解決することはできない。教会はケースワーカーのような働きをすることも時に求められる。つまり住む場所の確保のお手伝いである。そしてカップルに10年後はどんな生活をしたいと思っているか尋ねてみる。果たして今の生活を続けながらそのような生活は可能だろうか。子どもは育てるのか。どんな子どもに育てたいのか。その子どもに自分たちがしているような同棲生活を若いときにして欲しいと願っているのか。子どもの性教育は、子どもが思春期を迎えてからではなく、今から始まっていることを自覚しているか。結婚しない状態での性関係について聖書が何を言っているか知っているか。こうした一連の自己評価を促す質問によって、多くの場合変化が期待される。教会のリーダーは自らの弱さを認めながら、同じ弱さをもった兄弟姉妹として、温かく関わっていく必要があるのではなかろうか。

著者プロフィール

臨床心理士。精神保健福祉士。日本カウンセリング学会認定カウンセラー。研究領域は、選択理論、現実療法、精神栄養学、クオリティ・スクール、神学など。精神障害者のためのグループホームでの実践歴20年。著書『しあわせな夫婦になるために』、訳書『ハッピー・ティーンエイジャー』他多数。http://www.christianmarriage.jp/(本稿は『幸いな人』2004年3月号より転載、pp.55-57)